昭和五十六年一月五日 朝の御理解
御理解 第六十九節 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする 三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いた ら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめ じゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行 こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
信心がみやすいという事は信心が有難うなる。信心が楽しゅうなるという事は、修行が有難うなる、修行が楽しゅうなるという事だと思うですね。
いよいよ今日から寒修行。合楽の皆さんの場合は、有難いと思う事は、寒修行にはというその希望というか願いをかけておられる。いうならば、寒修行が皆さんの場合有難いものになっておるという事。もうすでに信心が容易いものになってきておる証拠です。それがいよいよ本当なものになるという事が信心です。
その本当なものになるという事が、この御理解は容易い容易いとはじめからそういうふうに言っておられるけれども、その中のところは難しいですね。
三年五年の信心じゃ迷いやすいとこうおっしゃっておられます。しかも十年と続いたら、十年と続いたらというその修行が我ながら我が心をまつれという程しのもになっていくんです。この辺になってくると容易いとは思われませんけれどもね。
けれどもやはり、ひっくるめてね、今申します修行が有難くなってくるという事が信心だという事になると実は、容易い事になってくるですね。楽しゅうなってくる。 そこでまあ、修行にもいろいろありますけれども、させて頂く修行、させられる修行がございます。この寒修行等はさせて頂く修行ですね。ですからその気になれば楽しゅうなってくる。元気な心が湧いてくる。させられる修行というのを合楽のように合楽理念をもってするとね、させられる修行でも、それは成り行きとして、又は神様の御働きとして御事柄として、受けていくという生き方ですから、まあ、有難いのですけれども、やっぱり咄嗟の事であったり、思いもかけない事であったりしますとまあ、ちょっと躊躇するような事すらあったり、又は信心がゆるんでおる時等になりますと、まあこれ程信心するのにといったような事にもなりかねません。
ですからどうしても、やはりさせて頂く修行が、これは信心に限らない事ですけれども、その事を体得しようと自分のものにしようとする為には、やはり修行がつきものですから、その修行をひとつ本気でさせて頂く事にならなければいけません。
私は合楽の場合は皆さんが修行をなさる、教祖様のお言葉の中にある神様へ向かってくるという事は、一足でも無駄にはさせんといったような意味の事をいろいろ教えておられますよね。神様へ向かって、ですから本当に無駄のないという事、もう間違いなしに神様が受けて下さるというその確信をもって、修行はさせて頂かなきゃならない。いつまでこんな苦労が続くんだろうかといったような修行ではいかにも修行のようであって修行にはなってない。
苦しいところを只、通り抜ける為に一生懸命あくせくしておるだけの事であってねそこを通り抜けたらおかげは頂け、おかげの世界には出られましょうけれども、いうならば我心が拝めれるようなおかげのお徳の世界には入っていかん。
これはおかげを受けるという一つの信心と申しますかおかげを受けるという事の信心を徹底してなさる方があります。ようおかげを受けられる。けれどもお徳を受けるというのはそうじゃないようですね。やっぱりお徳を受けるあり方生き方と、おかげを受ける生き方とは自ずと違うてくる。昨日でしたか、久留米の佐田さんがお届けをされていろいろお知らせを頂いておられる事をまあ、総合致しますと御主人の方は、もうこの人の生き方でいったら絶対おかげになるという信心を体験しておられますですね。もうこの人の生き方でいったら絶対おかげを頂くという、こりゃ間違いなしに素晴らしい。やっぱり商売にお道の信心による商売人だと思うですね。
そすと奥さんの生き方でいくと必ずお徳が受けられるとそういうようなお知らせを頂いておられます。一つ皆さんがよく知っておられますから御夫婦の信心ば思うてみられるといいですね。もう絶対お客さんが信用なさるような商売をなさるわけです。 いわゆる教えに基づいてのお商売が言わば出来るわけです。今年の信心の焦点というものを、それぞれが頂いておられますがね、商売はそれでよいけれども、こと商売以外の事になると、例えば、佐田さんの御主人の生き方だけではいけない事。だからなかなかお互いの信心のひとつのまあ、タイプというものがありますけれども、だから、例えば佐田さんがいま通っておられるようなところを通ってそして、お徳を受けるという信心に入っていかれる何か手立てがね今年はありそうな感じがするんです。 例えばお知らせに黒豆のお知らせをいく晩も続けて頂かれたという。黒豆という事は健康に、豆は健康という事です。黒という事は修行という事です。こりゃどういう事かというとまあ、体の上での修行という事になるのです。不思議です。ね同じ事なんですけども、片一方は商売ではこの生き方でいけば間違いないのですから、その真髄が健康の上にも頂き止めるようになられるといいのですけれども、金銭の事ならビクともせんけれど、体んこつになってくるとやはり動揺がおこってくる。
同じ事なんですけれどもね。だから例えば、大体が健康であんなさらん、よくひどい病気をなさいますから、その病気でいよいよおかげを受けるじゃなくて、お徳を受けるという生き方になられたら、素晴らしかろうというふうに、まあ昨日話した事でしたけどね。もうお商売する人がね、私は田主丸のむつやの信司さんに言うんですけれども、もうあんた達が商売が繁昌したいと思うなら佐田さんの信心を習いなさい。 あすけ習いに行きなさいち。あの行き方でいくなら絶対繁昌するばい。商売が上手という意味、あの生き方です。おかげを受けるというならそうだと。けれどもお徳を受けるという例えば今日の御理解のように、十年もしたら自分で自分の心が拝めれるような信心というのはそういうわけにはいかんようにある。
とにかく修行を有難いとわからしてもらう。その事が信心であるそれが信心は容易いものになってくるのであり、信心は有難いもんである。
合楽理念の詞(ことば)をもってすると信心が愉快になってくる。信心にそういう一つのリズム感が出てくるというかね。為には修行そのものが好きにならなきゃいけない。そこでさせられる修行よりも自分がいうならば、工夫して、いろいろと工夫して修行させてもらうがいい。
日常茶飯事の中に、修行はいっぱいある。昨日の御理解のように、私がもうこれはやすむ時に暖房切ってやすむ。だから朝方はもう布団の中まで冷え々としてくる。
途中で起きますから暖房入れようかなと思うた途端に神様が下さるのは、言に忍という字を書く、忍という字。ですから昨日、私皆さんに聞いて頂いたんですけれど、なら、修行と思うてやっている事をね、暖房入れればすぐ楽になりましょうけれどもそれを忍ぶ事が神様は修行でもう受けて下さっている。
神様が認めるという字になりますでしょうが。言に忍ぶ、お前が今言うておる事、思うておる事、そこを忍ばせて頂く事を神が修行として受けておるぞ。だからそういうような修行は私共日常茶飯事の中に沢山ありますけれども、いつもそういう信心でしめていくという生き方ですかね。こりゃ工夫致しますならもう沢山あります。
いろんな修行はだがこれはもう、そういうふうに私共が自分からさせて頂く修行というものは、しかもそれが神様が間違いなく認めて下さる、受けて下さるんだという見極めのついた修行をね、私共がさしてもらうところから、させられる修行というのがなくなります。
例えば病気等をするという事は、これはもうさせられるとですもんね。だからきついです。それを又、有難く受けていくような事はいよいよ至難です。けれどもさせて頂く修行はねえ有難いでしょうが。自分が自分からさせて頂く修行。有難いだけではない、それがだんだん楽しいものになっていく。今度のひとつ寒修行させて頂く中にです信心が容易いもの、それは修行が楽しいもの有難いものといったような信心確立を願っての修行であったら素晴らしいと思うですね。
どうぞ。